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文化のみち橦木館が現在のようにみなさまにご利用していただけるようになるまでには、長い歴史があります。
陶磁器商として活躍した井元為三郎が、大正末期から昭和初期に建てた当時の様子をよく伝える邸宅です。大きく区画割りされた敷地に和館、洋館、東西二棟の蔵、茶室、庭園が残されています。平成8年に名古屋市有形文化財、平成20年3月に景観重要建造物に指定されました。
この地域は、約600坪に区画割りされた江戸時代の武家屋敷町がルーツです。この広い敷地と陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く、船積みにも便利だったことから、明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになります。昭和初期には、名古屋市東区界隈に600をこえる上絵付け工場があり、最盛期には、日本で作られた輸出用の陶磁器の7〜8割が、この地域で生産(絵付け加工)されていました。
橦木館の洋館にはステンドグラスが贅沢に使われており、為三郎は輸出陶磁器の商談を行うため、多くのバイヤーを招待していたと言われています。
多くの古い邸宅が壊されていくなか、橦木館は平成8年から14年にかけて5組の店子が入り、一般公開や各種文化的なイベントを開催していました。一次閉鎖されたものの、平成16年には市民団体により管理が開始され、市民による様々な活動が行われてきました。そして、平成19年には名古屋市が取得し、修理工事を終えて、平成21年7月に新たにオープンしました。
昭和初期の「歴史・文化」に触れ、そこから新しい「文化」を発信する。
橦木館がこれまでたどってきた「歴史」を継承しつつ、私たちの手で新たな「歴史」をつくる。それが、「文化のみち橦木館」のめざすところです。
明治6(1873)年に生まれた井元為三郎は、16歳で有田系の商店に入り、明治30(1897)年、24歳で独立。橦木町に隣接する飯田町に井元商店(現井元産業株式会社)をかまえます。明治40年代にはサンフランシスコに貿易会社を設立。大正に入ると、シンガポールやビルマにも進出して、陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになりました。大正13年(1924)、名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任。加工問屋「五人衆」の一人に数えられるなど、陶磁器業界の重鎮として活躍しました。
そうして蓄えられた富をもとに、大正末期、井元邸は建てられました。為三郎の処世訓は、「幸福は我が心にあり」。好きなことを存分に行った、豪放磊落(ごうほうらいらく)な人物であったといいます。